蔵書情報
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書誌情報サマリ
| 雑誌名 |
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| 巻号名 |
2025-7:第16巻第7号:No.175 |
| 通番 |
00175 |
| 発行日 |
20250606 |
| 出版者 |
ABCアーク |
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資料情報
各蔵書資料に関する詳細情報です。
| No. |
所蔵館 |
配架場所 |
請求記号 |
資料番号 |
資料種別 |
帯出区分 |
状態 |
貸出
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| 1 |
中央 | 一般 | Z// | 204252202 | 雑誌 | | 利用可 |
○ |
| 2 |
清水中央 | 清2/一般 | Z// | 204388201 | 雑誌 | | 貸出中 |
× |
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書誌詳細
この資料の書誌詳細情報です。
| 巻号名 |
2025-7:第16巻第7号:No.175 |
| 通番 |
00175 |
| 発行日 |
20250606 |
| 出版者 |
ABCアーク |
| 特集記事 |
ここが変わった! 日本史の教科書70 |
目次
| 1 |
保存版特集 こんなに変わった 歴史教科書
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| 1 |
「日本史」を学ぶ醍醐味と面白み ページ:16
小和田哲男‖監修・文
|
| 2 |
教科書は「新説」をどのように取り入れるのか? ページ:22
河合敦‖監修・文
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| 3 |
ここまで変わった古代
瀧音能之‖監修・文
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| 4 |
<1>卑弥呼が治めた邪馬台国に関する記述が変更に ページ:30
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| 5 |
<2>卑弥呼の後継者の名前は?
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| 6 |
<3>「大和朝廷」という名称が教科書から消えた? ページ:32
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| 7 |
<4>4〜7世紀に海を渡って日本にやってきた人々の名称か変わった! ページ:33
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| 8 |
<5>ヤマト政権の朝鮮半島進出に関する記述が変わった ページ:34
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| 9 |
<6>小野妹子以前の“本当の第1回遣隋使”の注目度が上がった ページ:35
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| 10 |
<7>聖徳太子の名前が違う? ページ:36
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| 11 |
<8>聖徳太子の肖像は別人のものだった?
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| 12 |
<9>冠位十二階や憲法十七条は聖徳太子個人の功績ではない ページ:37
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| 13 |
<10>入鹿父子を滅ほしたのが「大化改新」ではない ページ:38
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| 14 |
<11>「公地公民」は即時に実現したわけではない?
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| 15 |
<12>「天皇」という称号を初めて使用した年代が変わった? ページ:40
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| 16 |
<13>藤原京が大規模な都であることが判明! ページ:41
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| 17 |
<14>日本最古の鋳造貨幣が変わった! ページ:42
|
| 18 |
<15>遣唐使の“廃止”に関する記述が変化した ページ:43
|
| 19 |
<16>阿弖流為の反乱者から抵抗の英雄というイメージ転換 ページ:44
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| 20 |
<17>「国風文化」は唐の文化から完全に脱却したものではない ページ:45
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| 21 |
ここまで変わった中世
伊藤賀一‖監修・文
呉座勇一‖監修・文
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| 22 |
<1>中世は院政期までさかのぼる ページ:48
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| 23 |
<2>武士の発生は地方から中央へ ページ:49
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| 24 |
<3>源平合戦は「内乱」と表現されるように ページ:50
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| 25 |
<4>なぜ鹿ケ谷の「陰謀」は「謀議」に変更されたのか
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| 26 |
<5>有名な源頼朝肖像はほとんどの教科書から消えた ページ:52
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| 27 |
<6>鎌倉幕府中興の祖といわれる北条時宗肖像は本人ではない?
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| 28 |
<7>足利尊氏の肖像画は騎馬武者像となる ページ:53
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| 29 |
<8>元寇という用語を避けるようになった ページ:54
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| 30 |
<9>文永の役の元軍撤退は暴風雨のせいではない ページ:55
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| 31 |
<10>いわゆる鎌倉新仏教は少数派だった ページ:56
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| 32 |
<11>後醍醐天皇の挙兵理由は理想実現のためではない ページ:57
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| 33 |
<12>足利義満は天皇の上に立ってはいない ページ:58
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| 34 |
<13>北山文化・東山文化を一括して室町文化とする ページ:59
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| 35 |
<14>一揆の説明が抵抗から手段へと変わる ページ:60
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| 36 |
<15>北海道・沖縄の動きも重視するようになる ページ:61
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| 37 |
ここまで変わった戦国時代
小和田泰経‖監修・文
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| 38 |
<1>戦国時代のはじまりの記述が変わった ページ:64
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| 39 |
<2>武田信玄の肖像画は別人だった ページ:66
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| 40 |
<3>フランシスコ・ザビエルの肖像画は別人だった
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| 41 |
<4>豊臣秀吉は農民出身ではなかった ページ:67
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| 42 |
<5>応仁の乱の原因は、足利義政と義視の対立ではなかった ページ:68
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| 43 |
<6>「応仁の乱」ではなく、「応仁・文明の乱」と呼ぶ
|
| 44 |
<7>北条早雲の伊豆侵攻は下剋上ではなかった ページ:70
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| 45 |
<8>北条早雲は伊勢宗瑞とも呼ばれる
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| 46 |
<9>鉄砲を伝えたのは中国人倭寇だった ページ:72
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| 47 |
<10>鉄砲が伝来したのは種子島だけではない ページ:73
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| 48 |
<11>戦国最強とされた武田騎馬隊は存在しなかった ページ:74
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| 49 |
<12>長篠合戦の三段撃ちはなかった ページ:75
|
| 50 |
<13>斎藤道三は親子二代の国盗りだった ページ:76
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| 51 |
<14>比叡山焼き討ちは大規模ではなかった ページ:78
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| 52 |
ここまで変わった江戸時代
大石学‖監修
上永哲矢‖文
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| 53 |
<1>関ケ原の戦いの西軍盟主が石田三成ではなくなった! ページ:82
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| 54 |
<2>鎖国は本当はなかった!? ページ:83
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| 55 |
<3>「島原の乱」とは言わない!? ページ:84
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| 56 |
<4>キリスト教信者を見つけるためのあの行為をなんと言い表すか ページ:85
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| 57 |
<5>「生類憐みの令」は悪法ではなかった!? ページ:86
|
| 58 |
<6>徳川綱吉は暴君?名君? ページ:87
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| 59 |
<7>江戸の「リサイクル」がコラムで注目 ページ:88
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| 60 |
<8>「士農工商」の記述は本当に消えたのか? ページ:89
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| 61 |
<9>農民の暮らしを規制した「慶安の御触書」も消滅の危機 ページ:90
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| 62 |
<10>江戸時代の「銀座」は京都にもあった ページ:91
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| 63 |
<11>江戸時代における幕府の直轄地の呼び名を「天領」とは言わない!? ページ:92
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| 64 |
<12>賄賂まみれの政治家・田沼意次の評価が変わっている ページ:93
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| 65 |
<13>「大奥」「吉原」はいまだ教科書では教えない! ページ:94
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| 66 |
<14>百姓一揆の原因は「苦しい生活」だけなのか ページ:95
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| 67 |
ここまで変わった幕末・明治時代
町田明広‖監修・文
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| 68 |
<1>ペリー来航を以前から把握していた ページ:98
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| 69 |
<2>米国に対して弱腰の外交ではなかった ページ:99
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| 70 |
<3>日米修好通商条約は不平等ではなかった ページ:100
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| 71 |
<4>横浜を開港地としたのは岩瀬忠震だった ページ:101
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| 72 |
<5>岩倉使節団の視察は後の欧化政策に寄与した ページ:102
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| 73 |
<6>「四民平等」がスローガンではなくなった ページ:103
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| 74 |
<7>北方開発には屯田兵以外の人々も動員された
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| 75 |
<8>明治維新の範囲が広がった ページ:104
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| 76 |
<9>坂本龍馬の功績が見直された ページ:105
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| 77 |
<10>西郷隆盛の肖像は親族を参考に描かれた
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| 78 |
江戸城天守再建シンポジウム「決起交流会」が開催! ページ:106
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| 79 |
「微差」で知る教科書のアップデート ページ:108
河合敦‖監修・文
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| 2 |
連載
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| 1 |
歴史の最前線特報 民家の仏壇から国宝級の新発見 藤原秀衡が奉納した経巻の一部が発見! ページ:8
八重樫忠郎‖監修・文
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| 2 |
栗山英樹のレキシズム<第18回>橋本左内がなぜ天才といわれ、どのようなことを日本に遺したのか!? ページ:12
栗山英樹<2023WBC日本代表監督>
角鹿尚計<橋本佐内研究の第一人者・福井県立大学客員教授>
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| 3 |
再発見!ニッポンの歴史の舞台を旅する 福岡県福岡市 本陣跡、防壁、蒙古たちの塚、顕彰碑…etc. 元寇・蒙古人たちとの戦いの痕跡をめぐる ページ:7
|
| 4 |
歴史人かわら版 ページ:113
|
| 5 |
次号予告&アンケート ページ:114
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内容細目
| No. |
内容タイトル |
内容著者1 |
内容著者2 |
内容著者3 |
内容著者4 |
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ここが変わった! 日本史の教科書70 |
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